いろはにほへとと十二音技法

音楽は調性を脱却した。ともすれば、文学も…


川沿いを降りながらの弟との談義の中で突如発現したこの問いが、今僕の脳内の多くを支配している。


音楽は調性を脱却した。それは、従来の形の音楽へのアンチテーゼとして誕生した一面もあるのだろうが、結果的には音楽の持つ可能性を格段に増幅させることになった。それは、平面の世界に生きるRPGの主人公が液晶という概念に挑戦する無謀さに例えられると思う。結果はというと、画面の中から出た所を捕えられ、檻の中で飼われて居る感じだろうか。主人公たちはいつまででも現状への挑戦を続けることになる。檻の外の地球からもいずれ脱出を試みるのだろう。


これは音楽に限ったことでは無いと思うのである。


同じ事が文学で起こればどうなるだろうか。



文学が、いやその前に文章が、最初に脱却しうる枠は何か。


文法なのではないか?


文法を脱却した文章とは何か。このように問われればあたかも難問のように聞こえてくるが、簡単に言えば僕の話す英語のことである。取り敢えず単語を言わねば始まらぬ、といった勢いに任せて口から溢れ出るそれは紛れもなく文法を脱したものである。

しかし問題は、この種の文法を脱した文章は幸か不幸か意味が通ずるのである。


この理由は考えてみればすぐに分かった。単語が既に意味を持っているから、である。



単語を脱却した文章とは何か。この問いの答えとして二人の思索に真っ先に思い浮かんだのが、言わずと知れた「びっとんへべへべ」である。


にほんごであそぼ」のエンディングテーマとして(?)広く親しまれたこの曲の歌詞に何か意味があるのかどうかは知らないが、一般的にいう既知の単語の概念からは脱却しているといって良いだろう。まさしく日本語で遊んでいるのだ。ここまでコンセプトに忠実なエンディングもそうあるまい。

しかし、いかんせん意味が分からないのだ。



「びっとんへべへべは音楽やねん」

そう言ったのは弟であった。


異論はない。むしろ大いに賛同した。「びっとんへべへべ」はその音で愉しむだけの目的で存在していると考えれば、単語を超越していることも意味を持たないことも全て説明がつく。



この答えは我々に混乱以外の何物ももたらさなかった。何故だ?


音楽の最小単位は音(おと)、12半音階である。文章の最初単位は音(おん)、五十音である。ならば、音楽と同じく文学も何かを打ち破ることが出来て然るべきではないか?


いろはにほへとは十二音技法であって然るべきではないのか?



文書は、何か伝えたいことがなければそもそも発生することがない。文書、言語の原点には意思の疎通と云う至上の命題が掲げられている。比べ音楽はどうか。その原点には何もない。音楽でなにかを伝えることは可能であり、近年ではむしろそちらに重点が置かれてさえいるが、音楽の原始には事実や意味があったのではない。音楽は原始から音楽だったのだ。



この差が今回僕の見出したほとんど唯一の見解である。決定的な説明を与えることは出来なかった。しかし面白い命題だったのではないかと思う。また書く。